病理学(pathology)は、病気の原因とメカニズムを明らかにすることを目的とする学問と定義されます。


病理学 は肉眼的、組織学的形態学を基盤としていますが、その長い学問的発展の歴史において常に他の学問(例えば、解剖学、生理学、物理学、化学、微生物学、免疫学、遺伝学、分子細胞生物学など)から影響をうけ、新しい方法論を提供され、取り入れてきました。
実際、多くの病気の病因解明はそれらの新しい技術を駆使して達成されてきました。
それらの中で病理学の発展にとって、最も重要で革命的なインパクトを与えたものは、19世紀における顕微鏡の発明です。
これにより、はじめて人類はミクロの世界(組織学)へ足を踏み入れることになったからです。

現代病理学の父と称されるRudolph Virchow (1821-1905)は顕微鏡を用いて病変の細胞や組織の詳細な観察を行い、組織病理学 を打ち立てました。
さらに20世紀に入ると、外科的生検組織を組織学的に診断する外科病理学が主として米国で発達し、病理学 は純粋な科学としてのみならず医療検査の一部として重要な地位を築くこととなりました。
そして、現在に至るまで、病理組織診断は疾患の診断の必要不可欠な手法として確固たる地位を築いています。

その後、化学、免疫学、分子生物学の進歩に伴い、病理組織学 はそれらの技法を取り入れてきました。
特に組織化学の開発により細胞内の代謝を知ることが出来るようになり、免疫組織学の開発により特定のマーカー蛋白質を用いた細胞の同定 が簡単にできるようになりました。
また、レーザーマイクロダイセクションとPCRの発明により、組織内の特定の細胞の遺伝子異常や遺伝子の異常発現が検出可能となりました。
さらにin situ hybridization法の出現により、特定の遺伝子再構成や染色体転座を検出できるようになり、またmRNAの発現をも組織学的に確認できるようになりました。

このようにVirchowの打ち立てた組織病理学は、20世紀において他の科学の進歩を受け入れ格段に進歩し、基礎医科学の分野においても臨床医学の分野においても、病気の同定と診断に不動の地位を確立しました。したがって、現代では、病理学というと様々な補助的技術のサポートを受けつつも、組織を形態学的基盤に立って観察し診断することであるとの認識が一般的でしょう。

はたして病理学 は今後も形態学の範囲内の学問であり続けるのでしょうか。
私は様々な概念や手法を柔軟に取り入れてきた病理学の歴史を考えたとき、おそらくそうではないと思います。

実際、21世紀の現在、顕微鏡発明に匹敵する大変革が起こりつつあります。すなわち、ヒトゲノムプロジェクトの終了とともにヒトゲノムがすべて解読 されその全体像が明らかとなりました。

DNAマイクロアレイを用いることで、網羅的な遺伝子発現プロファイリングが可能 となり、対象細胞の表現形質を支配する遺伝子発現を定性的かつ定量的に検出することができるようになってきました。
このことは、顕微鏡で観察される組織形態学的形質を含むすべての遺伝子発現形質を遺伝子発現パターンとして解読できるようになることを意味します。

これは単に組織学の補助ではなく、病理学 の概念の転換にもつながる大きな変化であると考えられます。
つまり顕微鏡の発明以来約2世紀にわたって蓄積されてきた病理組織学の学問的根拠がすべてリセットされ、病変で起こっている異常がすべて遺伝子発現パターン変化のデータとしてコンピューター上で再構築される可能性がでてきたということだと思います。
私は実際にそうなるだろうと思います。
これまでに蓄積された膨大なデータの焼き直しに 一体どのくらいの時間が必要なのか現時点では未だ不明といわざるを得ません。
しかし、10数年前まではヒトゲノムの全解読など非現実的で無謀だと主張していた分子生物学者や遺伝学者が大勢いたことを考えると、50年以上かかるとは私には思えません。
実際、悪性リンパ腫の分類においては既に画期的な知見が得られつつあります。

私は、病理学は今後もあらゆる学問領域から革新的な概念や手法を取り入れながら進歩し続け、ますます 柔軟で魅力的な科学として医学の発展に貢献するに違いないと信じています。